海と山、自然に囲まれた地域 静岡県牧之原市観光協会

静岡県牧之原市観光協会

相良史料館

かつてあった相良城の本丸跡に建つ歴史資料館。
田沼意次を中心に、相良氏、本多氏に関わりのある資料150点、相良油田、そのほか約100点を展示しています。
相良城落成の祝宴に使われた飯びつや刀だんすなどから、田沼時代のようすが伝わってくるようです。

■場所:牧之原市相良275-2
■お問い合わせ:0548-53-2625
■利用時間:午前9時~午後4時
■休日:月曜日(祝日の場合は開館・この場合は翌日が休館)、年末年始
■有料:大人210円 小人100円

田沼意次の時代、海賊が相良に攻めてきた折り、この太鼓を打ち鳴らして退散させたのだそうです。
刃物の切り跡は陣太鼓の中に金塊が詰まっていると聞いた泥棒の仕業。
また本堂には相良城大書院にあった杉戸があります。

■場所:牧之原市大沢695-1
■お問い合わせ:0548-52-1602

【御船神事】
海上安全を祈る神事で、大江八幡宮と飯津佐和乃(はづさわの)神社で行われる神事です。
船若と呼ばれる青年たちが菱垣廻船の模型をかついで、御船歌に合わせて街中を練り歩き、船首・船尾
を交互に持ち上げ、荒波を航海する様子を威勢よく表します。
大江八幡宮の御船神事は国指定無形民俗文化財、飯津佐和乃神社の御船神事は県指定無形民俗文化財。

■開催時期
・大江八幡宮    9月中旬
・飯津佐和乃神社  9月中旬
・神明神社    10月第2日曜日
・鹿島神社    11月3日

■お問い合わせ:0548-52-5544(芸術文化室)

牧之原市は、日本海と太平洋を結び日本列島の真中を貫く、最長で最古の「塩の道」の起点です。
かつて相良海岸でつくられた塩は、信州諏訪方面まで運ばれていました。
牧之原市相良には、塩作り体験が出来る施設があり、名産品として販売もされています。

『相良塩の道』
 信州に入る塩は、南太平洋岸からの「南塩」(上塩)と、日本海側からの「北塩」(下塩)がありました。
 これらは九つのルートになって運ばれていたのです。
 相良・秋葉道ルートはその一つで、相良から掛川、森、秋葉山、水窪を経て、南アルプスの秘境、
西渡、明光寺峠、横吹、青崩峠を越え、遠山谷の和田に入り、上村、大鹿、高遠を経て、杖突峠を越え、
諏訪方面に送られていました。
 相良では揚浜方式といって、満潮面より高いところに塩浜が作られ、原料海水は人力で汲み上げ、
砂面に散水する方式で行われていました。
その工程は海岸の砂地を均らし、そこへ海水を汲み上げて来て何回か撒き、乾いたのち砂を集めて桶に入れ、海水で砂についていた塩分を溶き、濃い塩水を釜で煮て塩をとるというものです。

荘厳な雰囲気に心が洗われるようなお寺で、臨済宗の古刹。
弘安6年(1283年)に開創し、本堂は戦国末に焼失後天明6年(1786年)に相良藩主
田沼意次により再建されました。
天平感宝元年(749年)に聖武天皇が「天下太平万民和楽」を祈願して東大寺などに布や土地を寄進したときの勅書(国宝非公開)を所蔵。
また、境内には『蝶々夫人』で有名なオペラ歌手の三浦環の記念碑があります。

■場所:牧之原市大江459
■お問い合わせ:0548-52-0492

明治7年(1874年)4月7日、堀野新田村(現・牧之原市堀野新田)、鈴木庄蔵の次男として生まれる。
小さい頃から学問が好きで、15歳の頃には単身上京し、明治29年(1896年)、帝国大学農科(現・東京大学農学部)を主席で卒業しました。

その後、同大学助教授となって翌年ドイツへ留学し、ベルリン大学エミールフィッシャー教授のもとで
タンパク質やアミノ酸の分析について学びました。

その当時、日本では「脚気」の蔓延が深刻化していました。

明治43年(1910年)、梅太郎は米ぬかから脚気防止に有効な成分、ビタミンBを抽出することに成功し、『オリザニン』と名付け、世界で初めてビタミンを抽出するという偉業を達成し、脚気の治療に大きく貢献したのです。

明治41年、川崎町細江(現牧之原市細江)に生まれました。
藤田まさと先生は、人の生きざま、人生の浮き沈みといった日本人の心を揺さぶる詩を五線紙に添えてきました。

特に股旅・道中物はまさに藤田作品の真髄といえ、「旅笠道中」「妻恋道中」「流転」「大利根月夜」が代表的。
江戸情緒をたっぷりと歌い込んだ「明治一代女」
軍国歌謡の代表作「麦と兵隊」
終戦の陰で引揚船から降り立つ我が子を待つ、空しい母の姿を歌った「岸壁の母」
そして大ヒットした「浪花節だよ人生は」など

一方、「榛原音頭」「榛原小唄」といった郷土の歌や市内の学校の校歌も生みました。
このような業績をたたえ、毎年「藤田まさと先生を偲ぶ歌の祭典カラオケコンクール」が開催されています。
細江の照国寺にお墓があり、藤田まさと先生が使用した愛用品が榛原文化センターや榛原郷土資料館に展示されています。

人物ゆかりの地を訪ねる

「田沼意次」この人物の名前を聞いて、みなさんはどんなことを連想しますか?
田沼意次は江戸時代の享保4年(1719年)に生まれ、幼名を竜助といいました。
15歳で徳川家重の小姓となり、一万石を拝領し、宝歴8年(1758年)遠州相良藩主となりました。
つまり、ここ牧之原市(相良)のお殿様だったというわけです。

その後、相良に築城を命じられ、10年後の明和5年(1768年)、大規模な相良城築城が始まりました。

◆意次の功労
まちは城下町らしく整備され、萩間川には橋が架けられ、東海道に通ずる田沼街道などが整備され、お城は安永9年(1780年)に完成しました。
やがて意次は10代将軍徳川家治の側用人を経て老中に進み、いわゆる田沼時代を築きました。

◆意次の不運
意次は幕府財政の立て直しのため、農業一辺倒から重商政策への転換、水田の開発、エゾ地の開発など、大変な努力をしました。しかし、天明年間の飢饉、浅間山大噴火などの天災地変が相次ぎ、さらには政敵である松平定信などの保守派により、長男の田沼意知が殿中で佐野政言に切り付けられて死去。その上、頼りにしていた将軍家治も病に倒れ、反田沼勢力の攻勢に老中の座を保つことができなくなってしまい、所領を没収され隠居を命じられてしまいました。
そして、天明8年(1788年)7月に意次は失意のうちに70歳で亡くなりました。

◆尚早の政治家
身分の低い家柄の出身であった意次は、何事も家柄、前例、旧習などにより拘束されていた封建時代に
優れた先見性と創造性、そして努力により老中職まで登り詰めました。
意次の政治は当時驚きの「構造改革」で、相良城のあったこの地にとって意次は「名君」であったといえます。

 

■相良城石碑
本丸跡に相良史料館が建てられ、石碑があります。

■田沼街道
牧之原市相良と東海道の宿場町、藤枝を結ぶ街道は、田沼意次が整備したもので
今でも「田沼街道」と呼ばれています。

郷土の歩みを知るなら、榛原の歴史や民俗、資料が展示されている郷土資料館へ行きましょう。
当時の歴史や人々の素朴な心情がうかがえるほかに郷土が生んだ偉大な作詞家「藤田まさと先生」
の使用した愛用品が展示されています。

■場所:牧之原市静波1478-22
■お問い合わせ:0548-22-6544
■開館時間:午前9時~午後4時
■開館日:水・土・日(第3日曜日は休館)

牧之原台地の尾根を利用した勝間田城跡。
平安時代末から室町時代中期までこの地を領有していた豪族「勝間田氏」が築いた山城。
牧之原台地の枝尾根に築かれた勝間田城は、急峻な地形を巧みに利用し、堀切や土塁など外部からの
侵入を防ぐ縄張りが特徴で、典型的な中世の山城として今に至っています。

築城は定かではありませんが、14世紀末頃といわれ、今川氏との攻防で文明8年(1476年)落城し、
その後廃城となりました。

■場所:牧之原市勝田2160-1
■お問い合わせ:0548-52-5544(芸術文化室)