田沼意次
人物ゆかりの地を訪ねる
「田沼意次」この人物の名前を聞いて、みなさんはどんなことを連想しますか?
田沼意次は江戸時代の享保4年(1719年)に生まれ、幼名を竜助といいました。
15歳で徳川家重の小姓となり、一万石を拝領し、宝歴8年(1758年)遠州相良藩主となりました。
つまり、ここ牧之原市(相良)のお殿様だったというわけです。
その後、相良に築城を命じられ、10年後の明和5年(1768年)、大規模な相良城築城が始まりました。
◆意次の功労
まちは城下町らしく整備され、萩間川には橋が架けられ、東海道に通ずる田沼街道などが整備され、お城は安永9年(1780年)に完成しました。
やがて意次は10代将軍徳川家治の側用人を経て老中に進み、いわゆる田沼時代を築きました。
◆意次の不運
意次は幕府財政の立て直しのため、農業一辺倒から重商政策への転換、水田の開発、エゾ地の開発など、大変な努力をしました。しかし、天明年間の飢饉、浅間山大噴火などの天災地変が相次ぎ、さらには政敵である松平定信などの保守派により、長男の田沼意知が殿中で佐野政言に切り付けられて死去。その上、頼りにしていた将軍家治も病に倒れ、反田沼勢力の攻勢に老中の座を保つことができなくなってしまい、所領を没収され隠居を命じられてしまいました。
そして、天明8年(1788年)7月に意次は失意のうちに70歳で亡くなりました。
◆尚早の政治家
身分の低い家柄の出身であった意次は、何事も家柄、前例、旧習などにより拘束されていた封建時代に
優れた先見性と創造性、そして努力により老中職まで登り詰めました。
意次の政治は当時驚きの「構造改革」で、相良城のあったこの地にとって意次は「名君」であったといえます。
■相良城石碑
本丸跡に相良史料館が建てられ、石碑があります。
■田沼街道
牧之原市相良と東海道の宿場町、藤枝を結ぶ街道は、田沼意次が整備したもので
今でも「田沼街道」と呼ばれています。







